韓国の書院9つの物語

ユネスコ世界遺産に登録されている9つの書院の紹介

性理学の礼学を掘り下げて研究した論山(ノンサン)遯岩(トナム)書院 (史跡第383号)

地面があらゆるものを背負い、海があらゆる水を受けとめるように、
包容しなさい。
学問を広く深く身につけ、礼を実践しなさい。
朝の光のように暖かく柔らかな品性を養いなさい。

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  • 개요(0:00)
  • 제향(3:48)
  • 강학(5:309)
  • 교류 및 유식(6:13)
  • 문화재 & 기념물(7:06)

書院の主な機能

  • 概要
  • 祭享
  • 講学
  • 交流と遊息
  • 文化財&記念物

遯岩書院の概要

地面があらゆるものを背負い、海があらゆる水を受けとめるように、包容しなさい。 学問を広く深く身につけ、礼を実践しなさい。 朝の光のように暖かく柔らかな品性を養いなさい。

遯岩書院の全景

「遯岩書院」の祠堂である「崇礼祀(スンレサ)」の前にある花塀に12文字の漢文で書かれた朝鮮中期の代表的な儒学者金長生(キム・ジャンセン;1548〜1631)が残した教訓です。昔も今も、「実践するのがとても難しい」教えです。

김장金長生が生きていた16〜17世紀は、残酷な士禍(官僚の粛清)や反乱、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)など頻繁な戦により、国全体が混乱に陥っていました。もはや性理学の理念だけでは崩れかけた社会の綱紀と倫理意識を正すことができず、その代案として「礼学」が受け入れられました。金長生の「礼学」に基づく社会的理念や政治哲学は、朝鮮が切実に求めるリーダーシップでした。
金長生は、宋翼弼(ソン・イクピル)と李珥(イ・イ)から性理学を学び、受け継ぎ、17世紀朝鮮の「礼学」を取りまとめた学者です。彼が35歳になったとき、父金継輝(キム・ゲフィ)が亡くなると、「喪礼」と「祭礼」を家に伝わる礼法に従って行いましたが、その翌年、金長生は申義慶(シン・イギョン)が編集した「喪制書」を一般の人にも読みやすくまとめました。それが「喪礼備要」です。52歳には冠婚葬祭の礼を研究した「家礼輯覧」を完成させています。このように遯岩書院は、礼学の実践において中心的な役割を果たしました。
  • 崇礼祀

  • 凝道堂

  • 山仰楼

忠清南道(チュンチョンナムド)論山(ノンサン)にある「遯岩書院」は、1634年に金長生の弟子と地元の士林により、ここから1.5km離れた「スプマル」に建てられました。その後、1660年に顕宗(ヒョンジョン)から「遯岩書院」という扁額を賜り、賜額書院となりました。「遯岩」は「スプマル」にある岩の名前です。洪水に見舞われると庭が浸水したため、1880年に今の場所へ移されました。

書院は低い丘陵地の上に東寄りに建っています。正門である「入徳門(イプドクムン)」を入ると、中央の「養性堂(ヤンソンダン)」を中心に東斎「居敬斎(コギョンジェ)」と西斎「精義斎(チョンイジェ)」が向かい合っています。「養性堂」の前には宋時烈(ソン・シヨル)が碑文を書いた「遯岩書院院庭碑」が立っています。「養性斎(ヤンソンジェ)」の西側には、書籍の版や王室の賜物などが大事に保管されている「蔵板閣」があります。
  • 入徳門

  • 養性堂

礼学の理論を建築に取り入れて建てられた「凝道堂(ウンドダン)」は、金長生が礼学書「家礼輯覧」に描いた図面通りに造られました。「『道』が留まるところ」という意味の「凝道堂」は、前面5間、側面3間で、一間の広さが広く、外観も美しいです。切妻屋根、風雨をしのぐための板、そしてその下にさらに軒があるのが特徴的です。韓国の書院の講堂の中で最も規模が大きい「凝道堂」では、礼学に関する議論と活発な著述活動が行われていました。そのため、遯岩書院には多くの木版と礼学理論書が保管されています。

遯岩書院の祭享

遯岩書院では、享祀の約40日前に院長が主宰する葬儀会議が開かれ、献官と執事を選びます。選ばれた祭官にはその旨を郵便で知らせ、当事者の同意を得ます。
一方、享祀を開始する前に、高宗(コジョン)時代に王室から賜った硯「内賜硯」で墨を磨り、祝文に初献官の名前を書きます。この硯は、普段は下賜された「玉灯蓋」と一緒に保管し、祀享の際にのみ、大切に扱いながら使用します。
毎年旧暦の2月と8月に享祀を行います。
  • 崇礼祀

  • 享祀

祀享の対象人物

祠堂「崇礼祀」には、金長生を中心に、彼の次男であり弟子でもある金集(キム・ジプ)と宋浚吉(ソン・ジュンギル)、宋時烈が祀られています。
17世紀の朝鮮で礼学研究をけん引した金長生は、国の政治にも大きな影響を与えました。金集は、父金長生と共に礼学の基本体系を完成させました。宋時烈は金長生に礼学を学びましたが、金長生が亡くなった後は金集から学び、学問に励みました。宋浚吉は、李珥と金長生から学問を学び、金集の推薦で孝宗(ヒョジョン)に抜擢されています。 礼学の理論をより具体的に整理した4人は成均館文廟に祀られています。

遯岩書院の講学

「すべての人間が善良で正しい心で互いに助け合いながら共に生きていけるよう、一人ひとりの行動を具体的に規定する秩序が必要だ」と主張した金長生は、これを「礼」としました。彼は、「礼」をより正しく実践するため、朱熹の「家礼」を朝鮮の実情に合わせて修正し、広く普及させるために努力しました。金長生は李珥の学風を受け継いだ畿湖(ギホ)学派(京畿道と忠清道地域を中心とした性理学派)の一人で、「礼」をより体系的に整理し、後学の養成に力を入れました。
  • 凝道堂

  • 養性堂

  • 正義齋, 居敬齋

遯岩書院の交流と遊息

  • 山仰楼

遯岩書院を訪ねると、美しく整えられた塀に囲まれて中央に建つ「山仰楼(サナンル)」が丁寧に迎えてくれます。ほかの書院のように、当時のソンビたちが円座を組んで詩や討論、絵を楽しんでいた「昔の遊息空間」ではなく、2006年に建て直されたモダンな建物です。 そのためか、この楼に上がると、「昔のソンビ」ではない、今の時代を生きていく「私たち」の姿が見えます。その中には「自分」もいます。世の荒波にもまれながら生きていく私たちは、それぞれ自分自身に問いかけます。「私は善良か。隣人と社会に貢献しているか。国を愛しているか」と。

文化財&記念物

「凝道堂」は宝物第1569号に指定されています。礼学に関する金長生の著書である「喪礼備要」、「家礼輯覧」、「疑礼問解続」は、木版本と一緒に遯岩書院の蔵板閣に保管されています。 高宗のときに王室から下賜された「硯」と「玉灯蓋」も共に保管されています。
  • 凝道堂(宝物第1569号)

  • 遯岩書院院庭碑(忠清南道文化財資料第366号)

  • 遯岩書院惟敬祠(崇礼祀)、(忠清南道文化財第155号)