韓国の書院9つの物語

ユネスコ世界遺産に登録されている9つの書院の紹介

書院の経済基盤に関する情報を保有する長城(チャンソン)筆岩(ピラム)書院(史跡第242号)

조선의 대표적인 유학자 김인후 그는 제자들에게 ‘대학’을 버리고서는 ‘도(道)’에 이를 수 없다고 강조했습니다.
「大学」を読まずにほかの経書を読むのは、まるで土台を築かずに家を建てるのと同じだという教えでした。

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  • 개요(0:00)
  • 제향(3:42)
  • 강학(6:01)
  • 교류 및 유식(6:41)
  • 문화재 & 기념물(7:20)

書院の主な機能

  • 概要
  • 祭享
  • 講学
  • 交流と遊息
  • 文化財&記念物

筆岩書院の概要

16世紀の朝鮮の代表的な儒学者金麟厚(キム・インフ;1510〜1560)。
彼は儒教の経書の一つ「大学」を1000回以上読んだと伝えられています。
彼は、弟子たちに、「大学」を捨てては「道」に到ることができないということを強調していました。
「大学」を読まずにほかの経書を読むのは、まるで土台を築かずに家を建てるのと同じだという教えでした。

筆岩書院の全景

湖南地方の学問の本山である全羅南道(チョンラナムド)長城(チャンソン)にある「筆岩書院」は、1590年に湖南の儒学者たちにより金麟厚の学徳を称えるために建てられました。

筆岩書院は、前方に広い野原が広がる平地に建っています。「紅箭門」と「下馬石」、そして樹齢の高い銀杏の木を通り過ぎると、正門である「廓然楼(ファギョンル)」が現れます。「廓然」には「金麟厚の心は清らかで、広く、公平無私である」という意味が込められています。遊息空間である「廓然楼」を通り過ぎると、講堂の「清節堂(チョンジョルダン)」が見えてきます。清廉潔白な節義を守り、出世には興味を示さなかった彼の精神が息づいています。
「清節堂」の後ろには、「進徳斎(チンドクジェ)」と「崇義斎(スンイジェ)」が東西に向かい合っています。その左上にあるのが「敬蔵閣(キョンジャンガク)」です。「王と先祖の遺物を敬い、所蔵すべし」という意味が込められた「敬蔵閣」の扁額は正祖が書いたものです。八作屋根の下の四隅に施された3匹の竜頭の装飾は目を見張るものがあり、王から賜った遺物が大切に保管されていることを表しています。金麟厚は34歳の時、後に王となる世子を教えました。この時、世子は金麟厚の学問と徳行を高く評価し、竹の絵「墨竹図」を描いて授けました。「墨竹図」は「敬蔵閣」に保管されていましたが、「墨竹図」の原本を金麟厚の子孫たちが寄贈し、現在は、国立光州博物館に保管されています。
  • 祐東祠

  • 清節堂

  • 廓然楼

その右側にある内三門を入ると祭享空間「祐東祠(ウドンサ)」があります。「天の助けで東方に生まれた金麟厚先生」という意味の「祐東祠」には、北の中央に金麟厚の位牌が、その東に婿である梁子徵(ヤン・ジャジン)の位牌が祀られています。
筆岩書院は、このように講堂と東斎・西斎がいずれも北の祠堂を向いています。これは、先賢に対する礼をとっている平地書院の代表的な構造です。そして、「祐東祠」から東には、土塀の外に儒生たちが学ぶ本をつくる木版を保管する「蔵板閣」があります。講学空間、祭享空間、付帯施設が塀によって隔てられていますが、大きさの異なる複数の扉でつながっているため、移動には困りません。
  • 장판각

  • 경장각

日本軍に抵抗した全羅道の士林による義兵活動の中心地であった筆岩書院は、丁酉再乱の際に燃えてしまったため、1624年に黄龍面(ファンリョンミョン)甑山洞(チュンサンドン)に建て直されました。1659年に地元の儒生たちが扁額の下賜を求めて上疏すると、孝宗(ヒョジョン)が「筆岩書院」と書いた扁額を下賜し、賜額書院となりました。名前を「筆岩」としたのは、金麟厚の故郷の村の前に「筆の形をした岩」があったからだとされています。1672年に現在の場所に再び建て直されました。
現在、長城郡では、「書院ステイの運営」、「書院記録展示スペースの整備」、「伝統体験」などに力を入れ、筆岩書院のソンビ文化のグローバル化を目指しています。

筆岩書院の祭享

筆岩書院では、献官と執事が享祀の前日に講堂に集まり、それぞれ普段から好きな文章を順番に朗読していく「講会」が行われます。そして享祀日には、詩題に合わせてそれぞれ詩をつくり、発表します。先賢に対する尊敬の念と先賢からの教えを今の時代に蘇らせるための筆岩書院ならではの行事です。そして、享礼の際に、主享位に対してのみ祝文を読むほかの書院とは異なり、配享位に対しても祝文を読むのが特徴です。祭官たちは、享祀が終わったあと講堂に集まり、「白鹿洞学規」を順番に読んでいきます。
  • 祐東祠

  • 典祀庁

  • 内三門

祀享の対象人物

金麟厚は幼い頃から「神童」と呼ばれた、節義を重んじる気高い品性を持った道学者でした。18歳の時に「秋の澄んだ水と氷の入った壺のようだ」と言われた彼は、22歳にして科挙の一つ「司馬試」に合格し、31歳の時に「文科」に合格しています。朝鮮の第12代王仁宗(インジョン)が王位に就いたとき、賢明な政治により国を安定させようとしましたが、仁宗が即位から8カ月で亡くなると、故郷に戻り、性理学の研究に励みました。性理学だけでなく、天文学や医学など様々な学問の知識も備えていました。成均館では李滉と共に研鑽を積んでいます。また、「瀟灑園四十八詠」など1600編を超える詩を残しています。湖南地方の性理学の発展の基盤を築いた学者で、成均館文廟に祀られた著名な儒学者「18賢」の一人です。
梁子徵(1523〜1594)は幼い頃から「小学」を学び、身につけ、実践していました。15歳の時には「経書」と「史記」を完璧に暗記していたと言われています。李滉や李珥(イ・イ)などにも学びました。宣祖時代には居昌(コチャン)県監、石城(ソクソン)県監などを務めています。また、金麟厚の婿であり、弟子でもありました。

筆岩書院の講学

筆岩書院では、中央と地方から多くの人が訪ねてきて学問について討論していました。書院で保管している様々な扁額や記文などが、次から次へと訪ねてきた当時の学者たちの痕跡として残っています。また、これらの資料から、筆岩書院が長城地域だけでなく、全国的に学問的な影響を及ぼしていたことがうかがえます。
毎月1日と15日には「清節堂」で講会が開かれました。優秀な人には賞品として紙が贈られました。
  • 清節堂

  • 敬蔵閣

  • 蔵板閣

筆岩書院の交流と遊息

筆岩書院は平地に建てられたため、ほかの建物からは外の景色が見えず、高台にある「廓然楼」からのみ、書院の前に広がる広大な野原を眺めることができました。四方が塞がっている講学空間で、書物に埋もれて読書三昧だった儒生たちは、「廓然楼」に上って開放感を味わったことでしょう。
終わりのない学問は、時には苦しみを与えるものでしたが、そのたびに遊息空間が癒しの空間となってくれたのかもしれません。

廓然楼

文化財&記念物

筆岩書院には、書院の役員、院生、奴婢、歴代院長の名簿、財産などが記された文書が残っています。計15冊65ページからなるこれらの文書は、「筆岩書院文籍一括」として宝物第587号に指定されています。
なかでも、奴婢の名簿と系譜である「奴婢譜」は、韓国に一つしかない奴婢系図で、奴婢の出身や家族関係などが記されています。
「蔵板閣」には、「河西全集」649版、「草書千字文」18版、「武夷九曲」18版、「百聯抄解」13版など、木版700枚が保管されています。
一方、祠堂である「祐東祠」には、祭享対象人物の思想が込められた壁画が描かれており、その人柄や価値観を理解するのに役立っています。
  • 筆岩書院文籍一括(宝物第587号、出典:文化財庁)

  • 筆岩書院河西(ハソ)先生文集木版(全羅北道有形文化財第215号、出典:文化財庁)

  • 筆岩書院河西(ハソ)遺墨木板一括(全羅北道有形文化財第216号、出典:文化財庁)