玉山書院の概要
「玉山書院」は1871年(高宗8年)の書院撤廃政策を乗り越えただけでなく、朝鮮戦争の激戦地だった「慶州(キョンジュ)安康(アンガン)戦闘」に降り注がれた砲火もしのぎました。
そのため、韓国の出版と蔵書の中心書院として、様々な分野の貴重な本を守り抜くことができました。
玉山書院
玉山書院は、1572年に慶州地域の士林たちにより李彦迪(イ・オンジョク;1491〜1553)の深い学問と実践の精神を称えるために建てられた書院です。翌年の1573年、宣祖から扁額を賜り、賜額書院となりました。
玉山書院は、東の華蓋山(ファゲサン)、西の紫玉山(チャオクサン)、北の道徳山(トドクサン)に囲まれ、南は開かれています。前を流れる紫溪川(チャゲチョン)の平たい岩には李滉の直筆で「洗心台(セシムデ)」という文字が刻まれており、「清い水で心を洗い、自然を友として学問を求めるところ」を意味しています。
正祖(チョンジョ)は、李彦迪の学徳を称えるため、ここで科挙の1次試験「初試」を行いました。
正門である「亦楽門(ヨンラクムン)」を通って「無辺楼(ムビョンル)」に行くには狭い溝を渡らなければなりません。紫溪川の上流から書院の北の垣の下に引いてきた水路です。溝を渡ると遊息空間である「無辺楼」が現れます。これは、韓国の書院のなかで最初に建てられた高床の板の間の形式をした建築物です。「無辺楼」の下に入り、石段を上ると、「無辺楼」と「求仁堂(クインダン)」の間に寮の東斎と西斎が向かい合い、正方形の講学空間をなしています。八作屋根で前面5間、側面2間の「求仁堂」は、美しく布積みされた石の基壇の上に建っています。
講堂の「求仁堂」では、名筆に触れることができます。軒下にかけられた「玉山書院」の扁額は、秋史(チュサ)金正喜(キム・ジョンヒ)が書いたものです。そして、テチョンマル(板の間)にかけられたもう一つの「玉山書院」は、文臣であり名筆としても有名な鵝溪(アゲ)李山海(イ・サンヘ)により書かれました。また、奥にある「求仁堂」は、「無辺楼」と同じく韓石峯(ハン・ソクボン)が書いたものです。
「求仁堂」の裏手には李彦迪の位牌を祀った祠堂「体仁廟」があります。「体仁」は、「賢明で善良な心を実践に移す」という意味で、李彦迪が主張した実践哲学の中核ということができます。李彦迪は金宏弼、鄭汝昌、趙光祖、李滉と並んで「東方五賢」とされ、朝鮮の道学の先導者として称えられました。
洗心台
洗心台の景観
一方、玉山書院から紫溪川に沿って西北に700mほど行くと、宝物第413号に指定された「独楽堂(トンラクダン)」が姿を現します。李彦迪が官職を辞め、「独りで自然を友としながら本を読んでいた」場所です。李彦迪は、「澄心台(チンシムデ)」で浮ついた気持ちを落ち着かせ、「濯纓台(タギョンデ)」で冠のひもを水で洗って世俗から抜け出し、「観魚台(クァノデ)」では魚の泳ぐ姿を見て「自由」について考え、「詠帰台(ヨンギデ)」で澄んだ風に当たりながら詩を詠み、「洗心台」では心をきれいに洗って身体と心を清めていたのかもしれません。
土塀に囲まれ、外の景色が遮られた「独楽堂」ですが、サランバン(客間)からは窓の外を眺めることができます。渓谷に向かっている四角い窓からは、清らかな渓谷の気が入り込んできます。
玉山書院は、2010年に世界遺産になった「韓国の歴史村:河回(ハフェ)と良洞(ヤンドン)」と、2019年に登録された「韓国の書院」(2019年)の両方で世界遺産登録されています。
玉山書院の祭享
玉山書院の春秋享祀は、深夜の1時頃に始まります。享祀を始める前に、祭官に「ヤハ」という重湯を提供します。これは、空腹がひどいときの口臭をなくすためです。
そして、供物として用意された動物を木の棚に載せ、楼閣である無辺楼、講堂、祠堂へと、木製のはしごを置いて中門を通して運ぶのも独特です。
享祀は毎年2月と8月に行われます。
体仁廟
典祀庁
祀享の対象人物
この書院に祀られた李彦迪は、存在論や宇宙論などを掘り下げて研究した性理学者でした。王室で性理学を教えたこともあります。李彦迪の学問は李滉へと受け継がれます。後に平安道(ピョンアンド)の江界(カンゲ)に流刑されましたが、そこで「求仁録」、「大学章句補遺」、「中庸九経演義」など多数の書物を著しました。李彦迪は、道徳的な理想国家を望んでいました。そのため、王に対する「直言」もためらいませんでした。彼の代表的な上疏文は、1538年に中宗に送った国を治める10の原則を記した「一綱十目疏」です。王が「家の中をうまく治めること」、「世子を正しく育てること」、「民心を受け入れること」、「贅沢と欲を警戒すること」、「国を守り、民を安らかにすること」など10項目が記されています。それを読んだ中宗は、「いつもそばに置いて守る」と誓いました。儒教理念から外れた国の政策を批判する連名上疏である「万人疏」には、8849人の士林が名を連ねました。この万人疏は、今でも玉山書院に残っています。
玉山書院の講学
玉山書院に保管されている入院規定や教育評価に関する内容が記された古文書から、玉山書院の講学方式を知ることができます。玉山書院には、院生の選考と評価に関する資料が残っています。これらの資料には、推薦された儒生と推薦者の名簿が載っています。春と秋、そして各種集まりがある度に推薦が行われていました。評価資料である「講紙」は、院生試験の成績記録紙で、試験科目別に成績を4つの等級で評価し、評価者が署名をしていました。
求仁堂
玉山書院の交流と遊息
遊息空間「無辺楼」の元の名前は「納清楼(ナプチョンル)」でした。「この楼に上がると良いエネルギーを受けて儒家としての極致に達する」という意味です。紫玉山(チャオクサン)に向かって門を開けると、青い谷と緑豊かな山が目に入ってきます。儒生たちは、このような美しい自然の中で一つとなり、先賢の学問と清貧、そして気概について討論し、噛みしめ、模範としていました。
無辺楼
洗心台周辺の景観
文化財&記念物
三国史記(国宝第322-1号)
王から8回に渡って書籍を賜りました。書院の書物は外部に持ち出すのが禁じられていたため、6000点余りの古文書と遺物を保存することができました。金富軾(キム・ブシク)の「三国史記」50巻9冊完本は宝物第525号に指定されています。李彦迪の「手筆稿本」が宝物第586号、1513年に刊行された活字本「正徳癸酉司馬榜目」は宝物第524号、そして、「海東名迹」2冊が宝物第526号に指定されています。